皮革の歴史

[大和時代~奈良時代]

衣服として用いられた毛皮の歴史は人類の最初からのものである。男は山野に、川に、海に、けものを追い魚をとらえ、その肉は食科として、骨は生活必需品や武器として使われ、皮は保温のための衣料として使用された。当初動物や魚の皮は、乾燥させただけの全く自然のままのものであったが、日本でも大和時代から奈良時代四世紀ごろ)にかけてだんだん鞣し革に近くなった。さらに、革に「うるし」を塗り、「金銀泥」を「にかわ」で描くという、外国でも驚くほとの鞣製法や、鹿の「燻革(ふすべ)」などの技術も発達し、「烏革(くりかわ)」の沓(くつ)と称される、現代のブーツと大差ない履物が高位の人の乗馬用としてつくられたりしたほか、革は太鼓などの楽器類や装飾品 にまで用いられるようになった。

[平安時代~鎌倉時代~安土桃山時代]

平安後期から鎌倉時代にかけては、革足袋、馬の鞍、太刀の柄や鞘、鎧、冑などにかなり多くの皮革が用いられ、また安土桃山時代に至ってオランダから持ち込まれた羊皮に描いた地図も、このころの新らしい皮革の出現とい えよう。西部劇でしばしばお目にかかる、「ローハイド」と称する狩用のひざかけ袴の一種「行謄(こうずけ)」は、このころすでに日本でも鹿皮を使って大 いに利用され、鹿、熊虎などあらゆる動物の皮を用途によってそれぞれに、「鞣し」、武具に、ハンターに、大いに活用されたのである。このころから一 般にもだんだん利用されるようになり、江戸時代には「革はっぴ」、「革羽織」なども鹿皮でつくられ、かなり美術的な作品が現われてきた.

[江戸時代]

それまでの、うち続く戦乱が武具の需要を増大させ、そのため皮革業に従事する人々はとくに必要な存在として認められ、諸領主は競って「皮づくり」 「武具づくり」を保護する政策をとった。新らしい城下町周辺には、これらの人たちが他の商工業者と同様に招かれ、土地を与えられて居住するようにな ったが、このことは江戸にも、大阪にも、革屋町という名祢の町があったことからもうかがえるし(江戸は今の日本橋三越の裏通り)、広島にはいまもなお革屋町という町名が残されている。

また堺の大茶人、千利休の師匠、武野紹鷗(しょうおう)も皮革商であった。また、当時すでに、武具材料として重要視されていた「姫路(白なめし革)」は、播磨国姫路の近郊高木村を中心として生産されていたが、これはこの辺一帯の領主黒田長政が「関ヶ原合戦」の戦功で筑前国を与えられ移住したとき 「高木村」をつくり、旧所領の「皮づくり」たちを招いて彼らを保護したと伝えられているもので、この時代の皮革業保護政策の—端といえよう。

江戸中期ごろまでは、武具以外にあまり活用されなかった皮革も、このころの全国的な商品経済の発達につれて、革足袋、革花緒、革煙草入れ、革文庫、革表紙などにまで用途が拡大した。また、その市場も全国に広がり、姫路の「白靼革(白なめし)」「革細工物」は主として室津、飾磨の港から、大阪や姫路商人の手を通じて全国に売りさばかれるようになった。しかし、江戸中期の封建制度の仕組のもとで、皮革業は「独占」に近い状態に置かれていた。すなわち、支配的地位にあるものは、その有利な地位を利用して、彼らに隷属する人たちに対しその支配力を一層強化し、皮革を勝手に取り扱うことを禁止し、たまたま取り扱いが許されたとしても、種々の制約が加えられ、つくり出された皮革材料や製品は、一旦支配者の手を通すか、または支配者のもとに強制的に買い上げられるかで、生産者が直接処分することは出米ない仕組みになっていた。

こうした封建的差別の中にあっても、近年皮革業は上からの商品経済の発達に伴って、だんたんと成長して来た。

江戸時代においても、皮革は、この堅牢さと強靱さを必要とした武具、武装に欠くべからざるものであり、このため武家の間では、武技の修練をかねて皮の採集を目標にしばしば大がかりな巻狩りなどが行なわれ、狩猟といえば鹿狩り、というくらいに狩り獲られた。

当時幕府の鎖国政策によって、外国貿易は一般には禁止されていたが、幕府のみが長崎奉行を通じて、ごく制限された形ではあったが、オランダ、中国、朝鮮を相手とする貿易を公然と行なっていた。このころのいわゆる「舶来革」は、ここを通じて日本に輸入され、主に袋物など高級工芸的な貴重品に使われていた。

「舶来革」を利用する革細工は、極めて精巧な美術的なものであり、とくに江戸ではこの技術が非常に洗練され、名物として全国に有名となり、その加工技術は名人芸に属するものが多く、江戸の袋物商村山善兵衛もこの分野でその名を謳われた一人であった。

[幕末~現代]

幕末から明治維新にかけて、欧米文化との接触がはじまったが、日本に初めて「革靴」がもたらされたのもこのころである。外国人の往来も多くなり、洋式軍事教練の行なわれた文久年間(1861〜2年)には、「類聚近世風俗志」に「横浜在勤の日本砲卒往々西洋革履を用う。また砲卒のみに非ず、士も稀に之を用う」としるされている。このころから日本の製革技術も変貌を遂げねばならなくなり、明治3年6月、明治政府の兵部省は、米国人フレルチアルレスに「皮革製造ー等教師雇聘の儀」を依頼して外国技術の導入をはかり、かくて製革技術も草履を「洋式軍隊」の洋靴に改める軍事の結びつきによって一大発展をとげたものである。

「日清戦争」当時、製革の6割以上が軍用もしくは警察用で、あとの4割弱が市場に出回り、その内の4分程が輸出されていた。しかも製品中の5割以 上は「茶利革(ちゃりかわ)」であり、4割弱が「油革」で、残りが他の革であった。日清戦争を契機として、近代皮革産業の発展は著しくはなったが、国内製革は量的にも質的にも舶来品に敵せず、しかも当時の「不平等条約」からくる舶来品の進出を抑えることが出来なかったため、軍需品の一部を除く圧倒的な部分はすべて輪入革に依存するのが実状であった。以後軍需との結びつきと併行し日本の皮革産業は年を追うごとに発展して来たが、それでも第二次世界大戦後の皮革に対する諸制限や統制令により日本の皮革産業は欧米諸国に比べてはるかに遅れてしまった。戦後の統制解除(昭和25年)以後は海外との交流も再開し、製革業者それぞれの自由な研究開発により、今日の如き外国製品に劣らない日本のレザーとして、あらゆる分野に供給されるようになったのである。

「原皮と衣料革」に進む

「はじめに」に戻る